| 異郷暮らし(タヒャンサリ) |
|
【第56回:2002年1月20日】 【第57回:2002年2月3日】 【第58回:2002年2月17日】 【第59回:2002年3月10日】 【第60回:2002年3月24日】 |
第56回〜
徐勝さん・立命館大学教授
−国家テロ検証し「東アジアに真の平和を」
1945年、祖国解放の年に生まれた在日朝鮮人の運命が、祖国の軍事独裁政権の権力によってねじ曲げられたのは1971年のことだった。
徐勝氏、当時25歳。その3年前、東京教育大学卒業後、「自分が帰属すべき祖国と民族を取り戻したい」という一念でソウル大学に留学した彼は、日本で冬休みを過ごして、金浦空港に降り立ったとき、陸軍保安司令部に連行された。「反軍政・民主化」を叫ぶ学生運動を弾圧するために、朴正熙政権が「在日僑胞学生学園浸透間諜団事件」をねつ造し、勝・俊植兄弟を北朝鮮スパイとして逮捕したのだった。
取調べの過程で残酷な拷問を受けた彼は焼身自殺を図った。全身に火傷を負い、耳がなくなるほど顔は焼けただれた。そして一審での死刑判決と監獄での執拗な転向工作。
しかし彼を監獄に閉じ込めた朴政権は、逆に窮地に追い込まれる。劣悪な獄中生活に耐え非転向を貫く彼の闘いは、世界中でファシズムと闘う「良心囚」のシンボルとなった。国際的な救援運動が広がり、朴政権に終焉をもたらす一因となったのである。
90年に釈放され、19年におよぶ獄中体験を克明に描いた著書『獄中19年』(岩波新書)は、韓国、米国でも翻訳され広く読み継がれている。
91年、カリフォルニア州立大学バークレー校客員研究員をへて、94年から立命館大学非常勤講師となり、98年に法学部教授に破格の就任をした。
近年、全力を傾けているのは、「東アジアの平和と人権」国際シンポジウムである。
彼の釈放直後、36年間投獄され、「台湾のマンデラ」と呼ばれる林書揚氏が京都を訪れた。蒋介石政権の「白色テロ」で5000人が処刑され、1万5000人が投獄されたという。東アジアでは戦争と侵略の時代が形を変えて戦後にも続き、国家暴力の嵐が吹き荒れた。
「わたしたちは東アジア冷戦期における国家テロの実態を明らかにして、被害者の名誉回復と補償を実現し、この地域に真の平和をもたらすために、国際シンポジウムを開こうと話し合ったんです」
第一回シンポジウムは97年に台北で開催された。400人の被害者・研究者・活動家が参加した集会は大きな反響を呼び、翌年の被害者補償条例の成立に一定の寄与をすることができた。
以後、シンポジウムは場所を移して毎年続けられ、徐氏は国際コーディネータとして関与してきた。済州島では、48年に島民が大量殺戮された「四・三事件」、沖縄では、米軍占領期の暗部に照明をあて、光州では、80年に多数の学生・市民が殺害された「光州事件」の20周年を記念して、賠償・名誉回復に成功した運動の経験を検証した。
第5回は今年2月、「冷戦・国家暴力と日本」をテーマに京都で開催するとともに、10月に韓国・麗水で、100万人の犠牲者を出した「朝鮮戦争前後期の民間人虐殺」を主題に連続シンポを開く。
「今年は朝鮮戦争を背景に、日米安保条約とサンフランシスコ講和条約が発効して50周年にあたります。日本でも戦後、レッドパージや、在日朝鮮人の四・二四阪神教育闘争など、米軍政下に国家暴力が乱舞した事件がいろいろありましたが、政府による真相解明も謝罪・補償もまったく行われていません。それどころか、日本人自身による研究さえほとんどありません。今回、アジアの冷戦時代に米国の共犯者として日本が果たしてきた役割と、民衆の抵抗を検証したいと思っています」
彼は祖国統一問題についても、「朝鮮民族自身の課題であると同時に、アジア全体の問題です。東アジア諸国間の和解・協力なしに朝鮮の統一もありえないし、朝鮮半島の和解・協力の実験は東アジア平和の新しいモデルを生み出すことでしょう」と強調する。
国家権力の恐ろしさ、不条理を身をもって体験したからこそ、国家暴力と人権の課題に真っ向から挑み続ける。
※第5回シンポジウムは2月22〜25日。会場は立命館大学衣笠キャンパス。参加費は全日程一般35000円、学生20000円。1日参加一般4000円、学生2000円。連絡先は090ー3826ー1347。ホームページはhttp://page.freett.com/eastasia。
朴一南さん・画家
−コリアンの立場でマイノリティー文化発信
在日同胞の美術運動はついにここまで来たか。かつて同胞芸術団体の専従として、多数の美術家たちとかかわってきた私は、大きな驚きと感慨にとらわれる。3年前に出帆した「アルン展」が、今年の3月12〜17日、海外在住コリアンまで含めた画期的なスケールに拡大して京都市内で開催されるのである。
「アルン」とは、朝鮮語の「美しい」と「一抱え」をかけた名称で、日本に在住・滞在するコリアン美術家を起点とするアーティスト・ネットワークを意味する。
副代表の朴一南 さんは1957年に兵庫県で生まれた在日二世。朝鮮大学校美術科卒業後、各地の朝鮮学校を経て、現在神戸朝鮮高級学校の美術講師をつとめる。
「授業はまず、いろんな素材を使った遊びから入るんです。美術という表現手段を通じて、子どもたちが自分なりの見方・考え方を持てるよう育てたいと思っています」
その思いは着実に実りをもたらしてきた。在日朝鮮学生美術展覧会で17年間連続「学校賞」を受賞。県内に9校ある朝鮮学校の美術教員は全員が同校出身者である。
朴さんも同校美術部時代に芸術に目覚め、「朝大に進んで、恩師から『美術は人間と社会の反映だ』と教えられたのが決定的でしたね」と語る。
卒業後、初めて美術展に出品した作品は、豚を飼う一世の姿だった。「この絵は世界で自分にしか描けないんだ」という自負心が込み上がった。以後、アジュモニ(おばさん)、ハルモニ(おばあさん)といった、自己の民族的アイデンティティにかかわる写実的作品を描き続けたのち、「時と壁」をテーマにした抽象的な画風に移行していく。
00年、韓国・光州市美術館で「在日の人権展」に出品した2m×4mの大作は、その後、同美術館に所蔵された。今年3月から開かれる第4回光州ビエンナーレでは、作品を招聘する在外コリアン作家20人の一人に選ばれ、意欲作に取り組んでいる。
では、在日の美術家たちをアルン展に駆り立てたものは何だったのか。
「在日同胞の美術展をやると、あっち寄りとかこっち寄りとかに見られがちですが、在日をもっと違う視点から見ることができないものかと皆で話し合ってきたんです。そして特定の美術団体を作るのではなく、『民族』という枠組みの下で各作家がネットワークを組んでいけば、一つの輪になった美術の広場を築けるのではないかと」
第1回アルン展では、在日、滞日(日本に居住中の韓国人)、在米コリアンと沖縄の日本人計110人が189点を出品。戦前戦後に活躍した在日美術家の軌跡などを語り合うシンポジウムも開催され、予想以上の反響を呼んだ。
今回は一層スケールアップし、京都市美術館など4会場で開かれる。出品者は日本、米国、中国から120余人。絵画、彫刻展のほか、コンピュータを使ったアートプロジェクトや中国朝鮮族写真展。さらにウズベキスタンの画家シン・スンナムの生涯を撮って山形国際ドキュメンタリー映画祭特別賞を受賞した「空色の故郷」(キム・ソヨン監督)の上映。朴さんの個展「間ーGap」も開かれるため、作品群の完成を急いでいる。
今回もう一つ注目されるのは、企業メセナ協議会の認定を受けたことだ。これによってアルン展への寄付金は税制上の優遇措置を受けられるため、多数の同胞・日本企業から協賛金を得やすくなる。在日の芸術活動としてはほとんど前例のないことであり、心から歓迎したいと思う。
「アルン展を始めてから、若い人たちの作風がすごく変わってきました。これからはもっと国際的な場にして、コリアンの立場からマイノリティ文化を発信していきたい」
既存の枠を打ち破った先に、豊かな可能性を秘めたキャンバスが広がっていた。今後、どのような未来像が描き出されていくのか、限りなく夢が膨らむ。
※2002アルン展(毎日新聞社など後援)は3月12〜17日(入場9時〜16時半)。京都市左京区岡崎公園内の京都市美術館(入場料200円)など同市内の4会場で講演、写真展、映画上映などもある。問い合わせは06・6716・1535。ホームページは
http://www.areum.org/
呂英華さん・韓国伝統芸術院院長
−病克服 舞踊で祖国統一
昨年11月25日、大阪市天王寺区の近鉄劇場。京畿民謡保存会日本支会の創立記念公演と銘打つ舞台の幕開けを待つ韓国伝統芸術院院長・呂英華さん(49)の胸に、過ぎし日々の追憶がさざ波のごとく寄せてくる。
「オンマ(お母さん)、わたし舞踊を習いたい」。慶尚北道慶州で生まれた彼女が8歳のとき、そういって母を困らせたのがすべての始まりだった。「アンデ!(ダメよ)」と母は反対した。大人たちはだれもがしかった。
「昔から、伝統的な舞踊や歌は妓生(芸妓)のすることという感覚だったんです。でもわたしは、舞踊など見たこともなかったのに、なぜか習いたくてたまらなくて」
根負けした両親が大邱国楽院に通わせてくれ、いつしか数々の舞台に立つ舞踊家に成長した。
人生の転機を迎えたのは76年。在日韓国人と結婚し、京都に渡ってきた。教会などで舞踊を教えるうち、日本で民族芸術が正しく伝えられていないことに胸が痛んだ。「自分がやらなければ」という使命感から、10年前に大阪の道頓堀で韓国伝統芸術院を開いた。
韓国無形文化財の李春羲さんに師事し、京畿民謡も学び始めた。毎年幾度か韓国の山にこもって指導を受ける。
しかし自分の進むべき道に踏み出した彼女に突如不幸が襲いかかった。5年前に脳内出血で倒れ、頭蓋骨切開の大手術を受けたのである。
「意識を取り戻して鏡を見たとき、絶望感にとらわれました。体が動かず、ご飯も食べられない。いまさら故郷にも帰れず、在日同胞でも韓国人でもない中途半端な立場。でも、生きてることだけでもありがたい、自分は舞踊をできなくても、教えられたらいいんだと思いなおして」
幸い後遺症もなく完治し、9ヵ月後に舞台に立ったときは感無量だったという。
韓国では、94年を「国楽の年」とし、国家が積極的に伝統芸術家を育成する時代となった。2年前、李春羲さんが社団法人京畿民謡保存会を創設した際、思いがけず日本支会長の重責を委託された。
「京畿民謡はまだ10年しか習っていないのに、過分な看板をいただいたんです。本当なら30年は習わないといけないんですが」
そして迎えた創立記念公演。第一部のオープニングは、総連(在日本朝鮮総連合会)系の文芸同大阪舞踊部による公演だった。「たとえ祖国は統一されていなくても、舞踊家は統一しよう」という思いが実現した。李春羲さんも駆けつけ賛助出演してくれた。
白眉は、英華さんの韓国舞踊と、能・狂言の安東伸元さんによるコラボレーション(共作)。韓日の伝統芸能が醸し出す新鮮な情感が会場を埋めた観客の胸にしみ込んだ。
第二部は一転して、京畿民謡歌舞劇「春風別曲」。妓生遊びで身上をつぶした夫を、妻役の英華さんが地方長官に扮装してこらしめるコミカルな舞台は、爆笑を誘いながら、観客を優雅な伝統芸術の世界へいざなった。
英華さんは今年1月、同院を同胞が多数居住する生野区に近い今里に移した。現在、受講生は約30人。運営は決して楽ではないが、他の講師の協力も得て、舞踊、民謡、チャング(長鼓)、カヤ琴、サムルノリの指導に全力を注ぐ。
「でも、日本で韓国の伝統芸術を普及するには、わたしたちの力だけでは限界があります。特にピリやヘグムなどの楽器を教える人がいないのです。韓国や在日の民族団体がもっと力を入れて、ぜひ民族学校や民族学級などにも国立国楽院から講師を派遣してほしいものです」
今後の抱負はと尋ねると、「まず民謡競演大会を開き、いずれは韓国文化センターを作りたい。それに、機会さえ与えてくれたら、韓国学校でも朝鮮学校でも行って教えてあげたい」と目を輝かせた。あたかも舞踊家を夢見た少女時代に戻ったかのように。
☆呂英華韓国伝統芸術院の連絡先は06・6971・6711。地下鉄「今里」駅から西へ徒歩1分。教室は、韓国伝統舞踊、京畿民謡、民謡チャング、カヤ琴、サムルノリ。
金孝晃さん・済民日報会長
−南北同胞の心 言論で結ぶ
初めて知ったとき、耳を疑った。韓国で事業を行う在日同胞は少なくないとはいえ、まさかメディアを経営する在日二世がいたとは?!
済州道一の購読部数を誇る「済民日報」の金孝晃会長。1943年、大阪市東成区に生まれ、19歳で会社を起こし、いつしかホテル業、建設業などを営む商工人の地位を築いてきたのだが。
「マスコミにはまったく関心なかったのに、両親の故郷である済州道で、新聞社の経営者になったのは運命のようなものですね」と静かに語る。
その済民日報は、90年に「済州新聞」の記者たちが真の言論活動をめざして社主に反発、辞職した百余人が自力で設立した新聞社だった。志は高くても、経営難に苦しんでいた彼らが95年、社運を賭けて代表理事会長に推戴したのが金氏だったのである。
経営者として新たな分野に手を染めた彼が果敢に取り組んだ一つは、97年に創刊した韓国初の日本語新聞「週刊コリアニュース」だった。「動機は至極単純ですよ」と笑みを浮かべる。
実は、正式に韓国語を学んだことがなく、重要な報告書やニュースは社員に翻訳させていた。そのうち自分だけ読むのは惜しいからと、日本語版の発刊に踏み切ったのだ。
「でも、本国のニュースを日本語で出せば、在日同胞がすぐ読んでくれると思ったんですが、そう甘くはなかったですね。さんざん苦労して、ようやく採算ベースに乗るようになりましたよ」
12面の紙面には、南北情勢や在日関連ニュースからビジネス、文化、観光にいたる幅広い情報が網羅されている。発行部数は3万部。日本だけでなく、韓国各地のホテルなどにも置かれており、日本人の読者が増えつつある。5周年記念特集号には、金大中大統領からも祝賀メッセージが寄せられた。
ちなみに彼は50歳になって済州大学行政大学院に入学し、韓国語を学びながら卒業したというから頭が下がる。
教育、文化、環境問題など、同紙が主催するさまざまなイベントのなかで、格別な位置を占めるのは「白鹿旗全国高校サッカー大会」である。
00年8月、プロボクサーの洪昌守(徳山昌守)選手が世界チャンピオンとなった日の夜、同大会優勝校の安東高校と大阪朝鮮高級学校が史上初の親善試合を行ったことは記憶に新しい。
民団(在日本大韓民国民団)系と総連(在日本朝鮮人総連合会)系の観客7000人が共に統一旗を振って応援した感動のるつぼのなかで、彼の目に涙が浮かんだ。この日のために2年間も奔走し、正式に試合が決まったのは、南北共同宣言が発表された二日後のことだったという。
「”ハミョンテンダ(なせばなる)”というのがわたしの哲学」という彼は、昨年さらに大胆な挑戦に踏み出した。印刷工場を新築し、高速輪転機を導入したうえで、8月から韓国の地方日刊紙として最多面数となる36面体制に入ったのである。その結果、わずか6カ月で読者数が50%も激増した。
現在、スタッフはコリアニュースの20人を含め、総勢190人。畑違いだった言論分野で献身する彼の思いは何なのか。
「わたしの家庭も離散家族なんです」とおもむろに語り始めた。「異母兄弟3人が北で暮らしており、5年前にその弟たちのもとに行った父は、1年前に87歳で亡くなりました。『自分の墓は済州島に作ってほしい』と言い残して」
彼もまた引き裂かれた民族の運命を生きる一人だった。
「言論生活をしながら痛感するのは、マスコミの社会的役割です。特に南北が対立している状況では、言論こそが双方を結ぶ唯一の言路といえるでしょう。だから特にコリアニュースでは、祖国の統一と在日同胞の和解にプラスになる記事を書いていきたい」
日本と韓国を行き来しながら、双方に向かって渾身のメッセージを送り続ける。
☆済民日報大阪本社の連絡先は06・6977・0031。「コリアニュース」の購読料は6ヵ月5000円。韓国語版ホームページはhttp://www.jemin.com
【第60回:2002年3月24日】
伊原剛志さん・俳優
−活気あるルーツの国でも仕事を
1〜3月、東京、大阪でロングランした三谷幸喜作・演出の「彦馬がゆく」。チケット完売というこの幕末動乱大河コメディで、伊原剛志さんはちょっとずっこけた熱血漢、神田陽一郎を熱演し観客を爆笑の渦に巻き込んだ。
184pの長身に、彫りの深いマスク。実にカッコいい俳優の彼は、1963年に福岡県で在日韓国人三世として生まれた。本名は伊原剛。「本当の本名は?」と聞くと、「8年前に帰化したから、それが本名なんです」と屈託なく笑う。
4歳のとき、大阪市生野区に移住。学校ではクラスの半数が同胞という環境で、差別を受けたことも、出自を隠したこともなかったが、高校時代に国籍の壁にぶつかった。
「教師になりたかったんですが、国籍が引っかかってなれなかった。わたしはいろんな経験をして、いろんな世界が見たかった。そんなとき、何かの本で『役者とは自分を探すこと』と書かれていたのを読んで、役者になろうと決めたんです」
運動神経抜群の彼は82年、千葉真一ひきいる「ジャパン・アクション・クラブ」のオーディションを受け、見事合格。翌年、早くも初舞台を踏み、「芝居って、違う人間になるって、こんなことかと初めて知った」と、当時を振り返る。
その後、坂東玉三郎演出「ロミオとジュリエット」に出演し、坂東さんから認められたのを機に、二枚目の演技派として演劇、テレビ、映画へと領域を広げていく。96年、NHK連続ドラマ「ふたりっ子」でバーバーの政≠コミカルに演じ一躍人気者になった。
「わたしにとって、自分が何人ということより、役者だということの方が大事なんです。役者は、自分がどういう存在かを知っていないと成り立たないと思う。だから日本人も韓国人も客観的に見れる自分の立場というのは、役者をやるのにかえっていいことだと思っていますよ」
芸能界に多数いる「在日」のほとんどが国籍を隠しているなか、彼は昨年の「徹子の部屋」で出自を明らかにした。「この問題を特別なこととして扱われるのは嫌いだが、『徹子の部屋』は自分の言いたいことがちゃんと伝わる番組だから話すことにした」という。
話題の中心は、その3年前に父、弟と共に初めてルーツの地、慶尚北道を訪れたことだった。
「自分がいま日本にいるのは、おじいちゃん、おばあちゃんがここから渡ってきたからだと思うと、感慨深い半面、不思議な感じがしましたね」
国籍のことばかりが注目されるのは嫌だし、役者はミステリアスであるべきだ。だからその種の取材は断っている、という彼が、先頃、あえて自分のルーツを訪ねていくドキュメンタリー番組を受けて立った。日本テレビ企画の「日韓友好スペシャル」(仮題)に出演するのだ。「出自の告白番組にはせず、38歳という一人の役者として、人間として、この問題をどう考えているかを出したかった」と意図を語る。
多忙なスケジュールをさいて、大阪と韓国で撮影を行った。この旅で強いインパクトを受けたのは、韓国の映画撮影所だった。
「映画の現場には若いスタッフですごい活気があふれていました。韓国には、特有の歴史があり、北朝鮮との関係もあって、国自体がドラマを持っているのも一つの要因で、あれだけのパワーが出るんだと感じましたね。わたしは常々アジアに出たいと思ってきましたから、チャンスがあれば韓国でも仕事をやりたい」
いろんな役に挑戦するロバート・デ・ニーロが大好きといい、「今までやったことのない役で使ってもらう方が嬉しい」というほど役作りに貪欲な彼が、今後どんなキャラクターを生み出していくのか、大いに楽しみである。
※伊原さんが所属する潟Pイダッシュの連絡先は03ー3486ー4561。日本テレビ番組「日韓友好スペシャル」(仮題)は4月10日(水)午後9時放送予定(関西では読売テレビ)。