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異郷暮らし(タヒャンサリ)

 

【第61回:2002年4月7日】
丁讃宇さん
−バイオリニスト
南と北、そして日本と韓国の懸け橋に
民族の魂 音楽で結ぶ

【第62回:2002年4月28日】
李鳳宇さん
−シネカノン社長
南・北・日の合作で世界に飛翔
映画に民族のロマン託す

【第63回:2002年5月19日】
姜 誠さん
−ルポライター
W杯成功へ 草の根活動で貢献
多文化共生へのスルーパスに

【第64回:2002年6月2日】
金 九さん
−スノーボーダー
感謝の気持ち 忘れずまい進
民族の誇り 五輪で訴えたい

【第65回:2002年6月16日】
高銀烈さん
“日本人の血”なければ退去強制?
世論の力で人権守ろう
支える会 幅広

 

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【第61回:2002年4月7日】
丁讃宇さん・バイオリニスト
−南と北、そして日本と韓国の懸け橋に

 世界の名だたる舞台に立ってきたバイオリニスト、丁讃宇さん。その彼が昨年1月、JR新大久保駅で「カゴパ(帰りたい)」を弾いた。1年前、ホームから転落した人を救おうとして犠牲となった韓国人留学生、李秀賢さんと関根史郎さんを追悼するために。
 「ご遺族にとっては本当につらいことでしょうが、日韓友好のために、お二方の勇気を生かさなければと思って」という言葉に、音楽に託す彼の思いがにじみ出る。
 1950年、岡山県に生まれ、5歳でバイオリンを習い始めた。物心ついたころから日本名を使う自分に、負のイメージがつきまとった。「芸術は国境を超える」と信じ、桐朋学園大付属高校に進学すると同時に本名を名乗った。
 19歳のとき、韓国の音楽家に見いだされ、ソウル市民会館(現世宗文化会館)でデビューを飾った。3000人もの観客が詰めかけ、「天才少年」と絶賛を浴びた。以後、演奏家として輝かしい階段を駆け上っていく。
 パリ国立高等音楽院に留学し、首席で卒業。弱冠27歳で韓国国立交響楽団コンサートマスターに抜擢。現地の女性と結婚。2年後、東京交響楽団コンサートマスターに。
 83年、韓国がKBS交響楽団を一流のオーケストラにするため再び彼を招聘したとき、祖国で骨を埋める決意を固めた。が、指導者として再び訪れた祖国の地で、思いもよらなかった葛藤に陥った。「マインドの違いというか、物事に対する感じ方とかで少しずつ溝が深まっていったんですね」
 決定的な事件に直面したのは85年のことだった。南北和解の気運が高まるなか、在日朝鮮人指揮者の金洪才さんと共演する「ハンギョレ(同胞)コンサート」が企画された。ところが韓国政府は彼の出国を禁じた。統一関係の事業は、民間が行ってはならないという理由で。「密航してでも公演に出よう」と金浦空港まで行ったが、パスポートを取り上げられ、なかば軟禁状態にされてしまった。
 88年、延世大教授に招かれるという恵まれた境遇を与えられた。しかし安定した韓国の生活のなか、「このままで良いのか」と自分に問いかけることが多くなり、音楽家としての生き方を再度見つめなおそうと、00年に日本に戻った。
 「自分のなかでずっと抱えていた問題の総仕上げをしたくなったんです。それは南と北の、日本と韓国の架け橋になること。そのためには在日韓国人が一番いいポジションだと思ったんです」
 本格的な演奏活動を再開した彼は、広島・長崎原爆追悼コンサートや各種チャリティ・コンサートにも積極的に出演するほか、仲間と共に結成した「ブレーメンアンサンブル」を率いて、学校、病院などにも出かける。
 彼にとって、古里は遠くにありて思うもの、だったのかもしれない。が、遠くの地に戻った今も、決して民族の血が冷えることはない。
 00年4月、歴史的な南北首脳会談が6月に開かれるという電撃的ニュースが発表された直後、彼は金洪才さんに電話をかけた。そして2ヵ月後、両氏の共演する「ユニティ(統一)コンサート 15年目の熱い想いを」が東京で実現した。舞台で抱き合う2人の姿に、会場は深い感動に包まれた。
 彼はこの4月、大阪で催される「4・24阪神教育闘争54周年記念『本名キャンペーン』コンサート」に出演する。在阪の”民族教育ネットワーク”が進めている、本名を呼び・名乗る運動に賛同し、自らの体験を語りながら、祖国の名曲とクラシックを奏でる。
 「わたしの演奏は、二つの音を併せ持っているとよく言われます。在日同胞が朝鮮と日本の二つの文化を持っているのは素晴らしいことです。今度の舞台では、自分の半生を集大成するつもりで最善を尽くしたい」
 魂の遍歴を続けてきた彼の音楽とトークに、熱い期待が寄せられている。
☆丁さんの連絡先は03・3335・4641 潟uレーメンハウス。ホームページはhttp://www.bremen-house.com。「本名キャンペーン」コンサートは4月21日(日)午後1時開会。クレオ大阪中央。資料代=2000円。高校・大学生1000円。小・中学生無料。問い合わせは06・6731・6801.

【第62回:2002年4月28日】
李鳳宇さん・シネカノン社長
−映画に民族のロマン託す


 「月はどっちに出ている」「ブラス!」「シュリ」…映画界に旋風を起こしたこれらの共通点は何? 答は、配給会社がシネカノン。社長は在日二世の李鳳宇さんである。 1960年、京都生まれ。一貫して民族教育を受け、朝鮮大学校を卒業。パリ大学に留学したが、在日としての将来に夢を見い出せなかった。
 大学を中退し、フィルムライブラリーで映画づけの毎日。が、やがてスクリーンの中に生涯の仕事を発見した。徳間ジャパンに入社し、映画配給のノウハウを学んだ。
 88年にシネカノンを設立。自信を持って送り出した第1作目「アマチュア」は見事に失敗した。「初めの頃は、在日が映画配給をやるなんて、業界から全く相手にされず、通訳のバイトで食いつないでいたんですよ」と苦渋に満ちた日々を振り返る。
 この頃、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)映画を日本で初めて一挙上映する「朝鮮映画祭」を企画し話題を呼んだが、財政事情は火の車。ベッケル監督の「穴」が好評でやっと一息つく状態だった。
 93年、「これが失敗したら映画をやめよう」と、初のプロデュースに挑んだのが「月は…」だった。崔洋一監督と組み、在日社会をアイロニカルに描いた作品に、上映館はそっぽを向いた。新宿・ピカデリーUをレンタルして全てを賭けた。が、1回目の客はわずか81人だった。
 「監督と2人、『惨敗だな』と、酒をあおりました。ところが2回目の上映前に劇場に戻ると、長蛇の列ができていたんです。あの時の喜びは忘れられません」
 以後、上映館が全国に拡大する大ヒットとなったばかりか、同年の映画賞を総なめにした。
 翌年、韓国映画「風の丘を越えてー西便制」に着目した。が、韓国政府から「朝鮮」籍の彼に興行権を売るなと圧力がかかった。評論家たちは、韓国映画は当たらないと歯牙にもかけなかった。しかし民俗芸能のパンソリが流れる映像に、音楽界から火がつき、動員数は13万人に達した。
 そして同社の名を不動のものにしたのが「シュリ」だった。136万人という空前の記録を築き、日本映画界が初めて韓国映画に脱帽した作品となったのである。
 同社は「JSA」(76万人)、「友へ/チング」(上映中)をはじめ、内外の作品122本を配給しヒットを重ねてきた。その秘訣は何かと聞くと、静かな口調でこう答えた。
 「映画はアートとビジネスの微妙なバランスで成り立つものです。在日はいつも朝鮮か日本か、北か南かといった二者選択を迫られ、自ずとバランス感覚が研ぎ澄まされる。僕が在日でなかったら、成功しなかったでしょう」。
 満を持して挑んだ最新作は、73年に発生した金大中氏拉致事件をテーマとする「KT」である。世界を揺るがせた衝撃的事件は、日韓両政府により真相を隠蔽したまま政治決着がつけられた。
 「最近、両国合作のラブストーリーなどが作られているが、それらは絵空事にすぎない」と、過去の清算も究明もしないままでの安易な「友好」にアンチテーゼを突きつける。先のベルリン映画祭で絶賛を浴びたこの作品は、あえてサッカーW杯を迎える5月から日韓および世界各地で公開される。
 彼は理想の映画を「タイタニック」だという。アイルランド系移民のキャメロン監督がアカデミー賞授賞式で、最も犠牲になった先祖のために黙祷を捧げた姿に、「自分のやりたいことはこれだな」と思った。
 「僕も映画を通じて民族の問題をやりたい。いつか南・北・日合作の映画を作り、世界的規模で成功させたい」
 利潤だけを求める駄作が氾濫するなか、映画に民族のロマンを託して世界に飛翔しようとする男に、私も心から声援を、いや、長年同じ夢を抱いてきた私自身のロマンを託したいと思う。
※シネカノンの連絡先は03・5458・6571。ホームページはhttp://www.cqn.co.jp。「KT」は東京5月3日、関西5月25日公開。

【第63回:2002年5月19日】
姜 誠さん
−ルポライター
W杯成功へ 草の根活動で貢献
多文化共生へのスルーパスに


 2002年サッカー・ワールドカップが目前に迫った。全世界を熱狂の渦に巻き込むビッグイベント。しかも日韓共催となる大会の成功のため、在日外国人の立場から貢献しようとするNPOがある。在日本定住外国人ネットワーク。その中心的役割を担うの姜誠さんは、各種メディアで健筆をふるうルポライターである。
 「ひょんなことから僕もかかわることになって」と苦笑を浮かべるが、その意気込みは並みではない。
 1957年、山口県で生まれた彼は、早稲田大学時代に本名を名乗り、民族運動にも「人並み」程度に参加した。
 卒業後、就職差別の壁のため、家業を手伝ったが、3年後に上京を決意。『週刊プレイボーイ』にネタを持ち込んだのを機にフリーライターの道が開かれた。幅広いテーマをこなしつつ、特にコリア関係の記事の大半を担当した。
 95年、仲間と共にライター集団「ドアーズプレス」を設立。『フライデー』『AERA』などにも領域を広げ、「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)などテレビ出演も少なくない。
 とりわけ力を込めたテーマに「チマチョゴリ事件」がある。90年代に入り、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核疑惑問題が浮上すると、マスコミにノドン1号、米朝会談、パチンコ疑惑といった語句が噴出した。そして94年には朝鮮学校女子生徒の制服であるチマチョゴリが切り裂かれる事件が全国で百数十件も発生した。
 姜さんは緻密な取材と資料をもとに、一見無関係に見える個々の出来事が、実は巧妙な演出意図のもとにリンクされていたことを暴く『パチンコと兵器とチマチョゴリ』(学陽書房)を上梓した。
 「日本はチマチョゴリ事件が94年度の百大ニュースにさえ入らない国です。ヘイトクライム(人種的偏見に基づく差別)を禁止する法律もない。他の国なら、差別的発言だけでも処罰されるのに」
 さらに、同胞業者の多いパチンコ業界に対し、監督庁である警察庁が強引にプリペイドカードの導入を迫ったため大混乱をもたらした真相に迫る『5グラムの攻防戦』(集英社)を出版した。
 が、一連の取材過程で、自宅にかみそりが送付されるなど脅迫・中傷が相次いだため、本名から「姜誠」というペンネームに切り替えなければならなかった。
 では、日本社会に鋭い問題提起をしてきた彼が、なぜいま、W杯なのか。
 「最初のきっかけは、98年のフランスW杯を見物したときでした。仏代表チームは23人中13人が移民の子孫だったんですが、極右政党が非難を浴びせました。そのためサッカーボールを俎上に載せ、国民統合のあり方について骨太な議論が交わされたことに驚きました。で、今回の日韓共催は、両国の関係を見直す好機だと思ったんです」
 00年春、ある会合でセルジオ越後氏が「日本に住む外国人がボランティアをやってみたら」と提案したのを受けて、有志が立ち上がった。
 01年9月、ネットワークを正式発足。W杯日本組織委員会、総連(在日本朝鮮人総連合会)、民団(在日本大韓民国民団)、華僑総会にも協力を申し入れ、各地でシンポジウム、フットサル大会などを開いてきた。
 ボランティア希望者は29ヵ国1地域の250人。大会期間中、大阪、神戸等5都市で通訳、国際イベントなどの草の根ボランティア活動を繰り広げる。
 「今度のW杯をただのバブルに終わらせたくない。W杯という宴の後に、多文化共生の芽が芽生えてほしい。それこそが、定住外国人が日本の地域にけり出す最高のスルーパスと思う」という姜さん。
 日本と韓国、さらには多国籍の人々の共生社会を築いていく転機を創り出すことができるかどうか、アジア初、21世紀初のW杯の幕が間もなく上る。
※在日本定住外国人ネットワークのホームページは
http://www.football.gr.jp

【第64回:2002年6月2日】
金 九さん
−スノーボーダー
感謝の気持ち 忘れずまい進
民族の誇り 五輪で訴えたい


 ボードが走る。血が逆流する。ジャンプ台を踏み切ると同時に、宙に舞い上がる。体を丸め一回転、と思った瞬間、真っ逆さまに落下し、意識がぶっ飛んだ…。
 初めてバックフリップ(後方宙返り)に挑んだとき、「口から泡を吹いて、死ぬかと思った」という。いまやスノーボーダーとして注目を集める金九さんを支えてきたのは、まさに命がけのチャレンジ精神である。
 仲間から「Goo」と呼ばれる彼は、1977年に広島で生まれた。小学校1年のころ、父を交通事故で亡くし、母・弟と共に大阪に移って以後、朝鮮学校に通い始めた。
 大阪朝鮮高級学校ではボクシング部に入部。184cmの恵まれた体躯で活躍し、キャプテンもつとめた。
 「やんちゃ坊主だった僕は、ボクシングを通じてガラッと人生が変わりました。何事でも一生懸命やればできるんだと教えられ、精神面で精進できたというか」
 卒業後、朝銀大阪信用組合に勤務。20歳のとき、友人とスキーに出かけ、初めてスノーボードに乗ったのがきっかけでとりこになった。
 弟と一緒に週末ごとにゲレンデに向かった。コーチはおらず、他人の技やVTRを見まくって体に叩き込む。「技術はなくても、根性では負けるものかと、鬼のように練習した」と振り返る。
 彼が没頭した「ビッグ・エアー」は、ジャンプ台から飛び出して空中演技を行う競技であり、飛距離は17〜18m、高さは5〜10mに達する。雪上とはいえ、何度も頭を強打し救急車に乗せられた。脳内出血を起こしたり、右ひじじん帯切断で骨が露出したこともあった。
 転機を迎えたのは00年2月。西日本最大級のスポーツ用品店であるスポーツタカハシが主催したエアーセッション第一回大会だった。約100人の出場者のうち、唯一人バックフリップを演じて優勝。最も高く飛んだ選手に与えられるビッグ・エアー賞も受賞した。
 スポタカから「うちのライダーにならないか」と誘われたのを機に、職場を離れてプロへの道を歩み始めた。翌年8月に開催されたビッグ・エアーの大会で5位に入賞し、7つのスポンサーがつくようになった。
 が、ひたすら猛進してきた前方に壁が立ちはだかる。スノーボードは98年長野冬季オリンピックから公式種目に採用されたが、それは「ハーフパイプ」、すなわち半円筒型のコースで演技する競技である。ビッグ・エアーはプロ資格さえ認定されていない。
 そのため今年からハープパイプに取り組み始めた。4ヵ月間、プロが集まる長野県・ワールドハイツで毎日8時から5時まで練習した。「サラリーマンが毎日働くのと同じように、これが僕の仕事ですから」と。
 2月には全日本選手権大会西日本地区予選に出場したが、もちろん練習を始めたばかりの種目で入賞できるほど現実は甘くなかった。
 スポンサーがついたとはいえ、生活と練習のため、オフシーズンには警備会社のアルバイトをしなければならない。朝鮮青年同盟堺支部の東班班長として、民族運動にも努力を傾ける。さまざまな困難があるが、この6月に世界の一流選手が集うオーストリアのキャンプに行くなど、目標に向かって邁進していく。
 「僕は祖国(朝鮮民主主義人民共和国)の代表としてオリンピックに出場し、民族の誇りをアピールしたい」と力を込めて語る。
 そして「恵まれた体を与えてくれたオモニ(母)、人間としての行き方を教えてくれた朝高の先生や朝銀の人、練習を支援してくれるスポンサーや堺支部の人たち皆に感謝したい」と強調する、実直そのものの彼にあえていいたい。その感謝の気持ちを1日も早く結果で表すべきだと。
※金九さんへの連絡先は06・6211・3577潟Xポーツタカハシ(本店=大阪・道頓堀)。日本スノーボード協会のホームページは、http://www.so-net.ne.jp/jsba
 

【第65回:2002年6月16日】
高銀烈さん
“日本人の血”なければ退去強制?
世論の力で人権守ろう
支える会 幅広い支援呼びかけ


 「去年8月、突然入管(入国管理局)で退去強制令が出たと言われて涙が止まりませんでした。家に帰って娘に話すと、娘も一緒に泣き出して…」
 大阪市平野区に住む高銀烈さんには加美北小学校4年生の悠紀ちゃん(9)と幼稚園児の息子(5)がいる。子どもたちは明るくスクスクと育ってきたが、非情な「退去強制」という命令のもとで不安な日々を送っている。
 高さんは65年、韓国・済州島で生まれ、高校卒業後は病弱な母親の世話をするため、家事を手伝っていた。89年、母が亡くなったのち、在阪の在日韓国人と結婚した姉に招かれ初来日した。
 そのとき在日韓国人二世のAさんと出会った高さんは、やがて結婚の約束をし、91年に再来日したが、さまざまな事情で婚姻届を出すことができなくなってしまった。
 そして92年8月に悠紀ちゃん、96年に息子が生まれたが、97年にAさんと別れることになったため、Aさんの認知のもとに二児の外国人登録を行うと同時に、自身の在留特別許可を申請した。それから4年後に突如退去強制令が出されたのだった。
 高さんは昨年11月、命令の取り消しを求める訴訟を起こし、有志たちによって「李悠紀さん家族の生活と裁判を支える会」が結成された。寄せられた署名は今春までに、法務大臣宛が1万7560人、大阪地裁宛が6万3936人に達した。
 支える会では、5月18日、初の決起集会に踏み切った。ちょうどその前日、急きょ森山眞弓法務大臣との面会が実現。法務大臣が「不法」とされる外国人と会うのは異例のことであり、「個別のケースについては何も言えないが、深く気持ちを受けとめたい」と語っていたという。
 18日の集会では、各支援団体代表のアピールに続いて、空野佳弘弁護士が裁判闘争の方針を報告した。
 「入管は、外国人には日本に在留を求める資格がないという立場に立ち、在留権を認めるかどうかは法務大臣の自由裁量とされている。それほど国家の論理は、人間に対して冷たい。したがって裁判闘争も重要だが、世論を盛り上げる運動も大切だ」と。
 日本は82年に「出入国管理及び難民認定法」を発効させたが、在留資格を巡る基準が明確でなく、難民などの外国人の受け入れ体制が欧米諸国に比べて極端に不備だと国際的な批判を浴びてきた。
 とりわけ子どもに対する措置については、子どもの権利条約において「子どもにとって最善の利益が主として考慮される」べきだ、とうたわれており、日本政府には国際条約を遵守する義務がある。
 近年、同様の事例が増加してきたため、法務省は96年に通達を出し、婚姻関係の有無にかかわらず、日本国籍の父親が認知した子を育てている外国人の母親を「定住者」として認める方針を打ち出した。しかしこの「血統主義」を逆から見れば、日本人との血のつながりのない者は、たとえ家族離散になろうと強制的に退去させるということを意味する。
 かつて米国では、表面上は肌の色が白くても、黒人の血が一滴でも混じっている者は黒人として人種差別する「血の一滴の原則」が制度化されていた。日本では本質的にはこれと同様に、日本人の血が一滴も流れていなければ差別するという制度が現存しているのである。
 高さんは「初めはどうしたらいいかわからず、皆さんにも迷惑がかかるので、国に帰る方がいいかと思ったこともありました。でもたくさんの署名をもらって胸が一杯になりました。悠紀も今の学校で友達と一緒に勉強したいというので、子どものため、在留許可をもらうまで頑張りたい」と決意を新たにしている。
 李さんたちに連なる多くの家族の人権を守るためにも、幅広い人々が支援活動に参加されるよう呼びかけたい。
※「支える会」の連絡先は大阪市平野区加美北7ー4−10 加美北民族クラブ親の会。電話090・1134・8481。

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